集中講義 大乗仏教 こうしてブッダの教えは変容した
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同じ仏教なのに、どうして教えが違うのですか?
“自己鍛錬”を目的に興ったはずの「釈迦の仏教」は、いつ、どこで、なぜ、どのようにして、“衆生救済”を目的とする大乗仏教へと変わっていったのか――。原始仏教の第一人者とその研究室を訪れた一人の社会人学生の対話から大乗仏教の本質に迫る、類を見ない仏教概説書。 【内容】
第1講 「釈迦の仏教」から大乗仏教へ
第6講 大乗仏教はどこへ向かうのか
自分を仏教徒と呼んで良いことがわかった
その根拠を説明できるようになったことは心強い(後述: 破僧の定義変更)
今までの流れ
1: 子供の時になんとなく「親がやっている儀式に参加する」という形で仏教に関わり、それを漠然と「仏教」Xと捉える
2: 成長して自分の考えYがはっきりしてくるにつれて「この考えXは自分の考えYと違う」と思うようになる
3: 仏教に関して学ぶうちに「日本でよく見る仏教と釈迦の仏教は区別すべきでは」という気持ちが自分の中に芽生えた p.102
富永仲基 / 江戸時代中期の思想史家 / すべての仏教経典は歴史的に実在した釈迦一人の教説に基づくものではなく、各時代の宗教的ニーズに応えて、後代の作為が順次付け加えられて成立したものだと論じた / 大乗非仏説論 / 今日では学界の通説となっている 当時は仏教界の猛反発があったが本居宣長は絶賛した
ではその「釈迦の教説でない今の仏教は仏教なのか?」となる
これに紀元前3世紀のアショーカ王による「破僧の定義変更」が関連する p.24
「摩訶僧祇律」という古い書物の中に「サンガ内に、もしお釈迦様とは違う解釈を主張する者が現れて悶着が起こったとしても、同じところに共住し、集団儀式をともに行っているかぎりは破僧ではない。別々に儀式を行うようになったら破僧である」といった意味のことがはっきりと記されています。 さらに『摩訶僧祇律』よりずっとあとに書かれた『倶舎論』という仏教哲学書には、破僧には二つの定義があることを述べた文章が見られます。「破僧には二種類ある。一つはお釈迦様の教えに背く教義をとなえることであり、これを破法輪(はぼうりん, チャクラベーダ)と呼ぶ。もう一つは儀式を一緒に行わないことで、これは破羯磨(はこんま, カルマベーダ)と呼ぶ」 つまり「おなじ集団儀式に参加するなら、仲間である」という定義
(もちろんこれは釈迦入滅後の話なので、これ自体を認めない派もある。僕は「明示的に『釈迦の仏教』と呼ぶ時はこれを認めない狭義、『仏教』と呼ぶ時はこれを認める広義、僕が帰依するのは後者」という立場)
自分の集団儀式への参加
釈迦の利他
p.41
自分が修行に励む姿を見せることで他の人に気づきを与える
手本となる
↔大乗仏教の利他
自分を犠牲にして誰かを救うこと
自己犠牲
p.66
人間の形のブッダではなく「教えそのもの」(法身)がブッダである、という考え
これは僕の「物理的身体が本体ではなく発信した情報が本体」という思想と同じ p.71
プラシーボは「あなたを慰めよう」という意味のラテン語
役にたつ雑学
法華経
方便品
p.84
思想の発展プロセスとして面白い
A→Aより強いB→BがAより強いっていう差の存在はいけてないから統一的Cを導入→CとAが矛盾する→方便です
Markdownの標準化を連想するな
法難に会うことが正しさの根拠
ソーシャルジャスティスウォーリアーみがある
p.104
p.180
サンガというコミュニティを維持するためのルール
律
中国仏教は律を重視していたが日本に輸入される時に崩れた
それは鎮護国家を目的として使われたから
国ではないコミュニティを作る必要がなかった
p.146
華厳経が中央集権国家の仕組みづくりに有用
大乗仏教のヒンドゥー教との近さ
草木国土悉皆成仏